横井軍平と「ゲーム&ウォッチ」誕生秘話

日本の玩具・ゲームクリエイターである横井軍平が手がけた任天堂初の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」の誕生秘話について解説します。

横井軍平の略歴

西暦    齢 主な出来事
194119月10日、京都府京都市にて誕生。
196524同志社大学工学部を卒業後、任天堂に入社。開発課に所属して数多くの玩具を手がける。
196625横井が手がけた「ウルトラハンド」が発売され、大ヒットを記録。
197938任天堂の開発課が分割され、横井は開発第一部の部長に就任。
198039横井が手がけた任天堂初の携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」が発売され、社会現象となる。
198140横井と宮本茂が手がけたアーケードゲーム機「ドンキーコング」がゲームセンターに登場。
198241横井が発案した「十字キー」を採用したゲーム&ウォッチ「ドンキーコング」が発売。
198948横井が手がけた任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」が発売され、大ヒットを記録。
199554横井が手がけた任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」が発売。赤字は出なかったものの、惨敗を喫した。
199655横井が手がけた任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイポケット」が発売され、ヒットを記録。
8月15日、任天堂を退職。
株式会社「コト」を設立。
19975610月4日追突事故により、56歳で死去。
1999横井が企画・開発に参加したバンダイの携帯型ゲーム機「ワンダースワン」が発売。
横井が監修したワンダースワン用のパズルゲーム「GUNPEY」が発売。
2003ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワードにおいて、Lifetime Achievement Award(生涯功労賞)を受賞。

任天堂に根付く横井軍平の「枯れた技術の水平思考」

任天堂は、1989年に創業した日本の老舗企業であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を手がけています。

任天堂の強さの秘密は、世界的な主流の、より迫力を求めたゲーム内容や画像のリアルさ、処理能力を争う技術競争からは距離を置き、任天堂独自の遊びを提案している点にあります。

「任天堂が提案する遊び」とは、遊びの原点に立ち返り、「誰もが楽しめる遊び」を目指すことです。

それは、最新を求める技術競争からは一歩下がって、全体を俯瞰し、遊びの本質を発見する思想を意味します。

そして、今や当たり前となり、使い古された技術を少しずらして、誰もが楽しめる遊びを提供していく姿勢を、任天堂は「枯れた技術の水平思考」と呼んでいます。

任天堂に脈々と根付いている「枯れた技術の水平思考」は、かつて任天堂に在籍した、ある一人の男から生まれたものでした。

その男とは、かつて任天堂の開発部に在籍した玩具・ゲームクリエイターの横井軍平でした。

横井軍平と任天堂の創成期

1965年、任天堂がまだ玩具メーカーであった時代に入社した横井は、持ち前の才能を生かして「ウルトラハンド」を始めとする、数々のヒット玩具を誕生させました。

ウルトラハンド
出典:sa2hara.com

1980年に入ると、入社15年目に突入した横井のもとに、一つのひらめきが舞い降りました。

そのひらめきによって、任天堂はそれまでの玩具からゲームメーカーへと転身する大きな転機となりました。

横井軍平と「ゲーム&ウォッチ」誕生秘話<前編>

ある日、会議に向かうために新幹線に乗っていた横井は、新幹線の中で退屈しのぎに電卓を使って遊んでいる中年サラリーマンの姿を目にしました。

当時、「電卓で遊ぶ本」といったタイトルの本が、何冊も出版されていました。

内容は、たとえば「123456789×9を計算すると1がずらりと並ぶ」とか、「平方根キーを何回も押し続けると1になる」とか、他愛もないものに過ぎませんでした。しかし、それでもサラリーマンの退屈しのぎになっていたのです。

その瞬間、横井のもとにひらめきが舞い降りました。

電卓を使って遊んでいる中年サラリーマンの姿を目にして、ふと「暇つぶしのできる小さなゲーム機を作ってみてはどうだろうか?」というアイデアをひらめいたのです。

横井軍平と「ゲーム&ウォッチ」誕生秘話<中編>

「小さなゲーム機」の着想から数日後、山内社長(当時)が乗る社用車(キャデラック)の運転手が風邪で欠勤しました。

山内社長はその日、大阪のホテルで会合があったため、山内社長のキャデラックを運転する人間が急遽必要になりました。そこで、当時外車を乗り回していた横井に白羽の矢が立ちました。

横井は大阪までの移動中、山内社長と何か仕事の話をしなければと考え、新幹線の中でふと思いついた「小さなゲーム機」の話をしました。

「小さな電卓のようなゲーム機を作ったら面白いと思います。今までの玩具は、大きくして売ろうという発想だけど、電卓のような薄くて小さなゲームだったら、我々のようなサラリーマンがゲームをしていても周囲にはバレませんから。」

文典:牧野武文「ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」

その時の山内社長は、横井の話に「フンフン」と頷くだけだったといいます。

しかし、山内社長は、その日の会合でシャープの社長(当時)佐伯旭と偶然出会い、横井が話していた「小さなゲーム機」の話を持ちかけました。

ここから、トントン拍子で世界初となる携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」の話が進んでいきました。

大阪での会合から1週間ほどして、シャープでもトップクラスの人間が任天堂を訪問しました。その席に横井も呼ばれました。

山内社長は「電卓サイズのゲームを作るなら、液晶はシャープが得意だから呼んだ」と平然と言い、ここから携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」の開発が始まりました。

ゲーム&ウォッチ第一弾「ボール」
出典:www.nintendo.co.jp

1980年に「ゲーム&ウォッチ」が発売されると、発売と同時に社会現象になりました。

最終的に国内の発売台数は1200万台を超え、世界市場まで入れると合計4340万台を売り上げました。

無数の違法コピー商品まで登場し、それを含めると1億台が出回っていたことになります。

横井軍平と「ゲーム&ウォッチ」誕生秘話<後編>

「ゲーム&ウォッチ」には、現在に通じる携帯型ゲーム機の原点が詰まっているといっても過言ではありません。

ゲーム機を携帯して遊ぶという発想を広めたのは、間違いなくこの「ゲーム&ウォッチ」なのです。

ここでは、「ゲーム&ウォッチ」がいかに革新的であったかを、3つの特徴から解説します。

その1. 「遊ぶ人」のことを考えたデザインを考案

「ゲーム&ウォッチ」のデザインを決める元になったのは、 新幹線の中で電卓を使って遊んでいた中年サラリーマンの姿でした 。

横井は、「ゲーム&ウォッチ」の開発当時を思い返して、次のように語っています。

「新幹線の中で大きなゲーム機を出して遊ぶというのは、我々サラリーマンには恥ずかしくてできない。どうしたら、人目につかずにさりげなく遊べるかというと、座ったときに人間は自然に前に手を組む。その姿勢で遊べるのがいいだろうと考えました。その状態では親指で操作するしかない。それで横型の筐体(きょうたい)ということになったんですね。だからゲーム&ウォッチのデザインは隠して遊ぶためのものなんです。」

文典:牧野武文「ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」

つまり、デザインありきではなく、「遊ぶ人」のことを第一に考えた上で、筐体のデザインやボタンの配置を考案しました。

その2. ほんのちょっとの実用性を加える

「ゲーム&ウォッチ」のような高額な娯楽商品を手に取った人は、それを購入するべきかどうかで悩みます。

何故なら、ヒトはその商品価格を払って、その価格以上の楽しみが得られるかどうかを考えてしまうからです。

しかし、そこにほんのちょっとでいいので、何かもう一つの実用性があると、買っておいても損はないだろうと、一気に購入する方向に流れ始めるのです。

「ゲーム&ウォッチ」が発売された1980年は、時計のほとんどが機械式であり、液晶のデジタル時計はあまり見かけませんでした。

そこに目をつけた横井は、「ほんのちょっとの実用性」として、「ゲーム&ウォッチ」にわざわざ「時計機能」を加えました。

「ゲーム&ウォッチ」は、当時の液晶の時計とほぼ同じ値段で発売されたため、「ゲーム&ウォッチ」をゲーム機としてではなく、ゲームもできる液晶時計として購入した人もいたのです。

こうした「ほんのちょっとの実用性」を加えたことで、ゲームにあまり関心のなかった人達にまで「ゲーム&ウォッチ」を浸透させるきっかけを作りました。

その3.折りたたみ式デザインによる2画面(マルチスクリーン)の採用

「2つのゲームを同時に遊べないか?」

1980年に発売した「ゲーム&ウォッチ」のヒットを見た山内社長は、続編の開発に専念する横井にそう言いました。

山内社長が何気なく口に出した言葉でしたが、横井にとっては目から鱗が落ちたに違いありません。

しかし、「ゲーム&ウォッチ」の液晶画面は、現在のようにどんな絵柄でも映し出せるものではなく、あらかじめ決められた絵柄しか出すことができませんでした。また、2種類のゲームを1つの画面に収めるのは相当に難しく、コストも高くつくことが予想されました。

そこで横井は、2つの液晶画面を上下に配置して、折りたたむことができるマルチスクリーンを思いつき、それを組み込んだゲーム&ウォッチ「オイルパニック」を商品化しました。

折りたたみ式のアイデアは、化粧用のパットから着想を得たといわれています。

ゲーム&ウォッチ マルチスクリーン「オイルパニック」
出典:www.nintendo.co.jp

「オイルパニック」は、2つの画面から構成された1つのゲームですが、2つの画面はそれぞれ違う絵柄で異なる動きをするため、結果的に2種類のゲームが収録されているようなものでした。

このマルチスクリーンは、後に「ゲーム&ウォッチ」シリーズ最大のヒット作となる「ドンキーコング」でも採用されました。

さらに、横井は「ドンキーコング」の開発において、それまでになかった全く新しい「十字キー」の設計にも取り組みました。

元々はアーケード版の「ドンキーコング」を「ゲーム&ウォッチ」に移植することになり、アーケード版で使われていたジョイスティックを、機体の薄い「ゲーム&ウォッチ」でどう表現するかという問題から「十字キー」が誕生しました。

十字キーの優れた点は、ボタン全体がひとつの部品で出来ている点にあります。

そのことで、上方向のキーを押すと、反対側の下方向が浮かび上がるため、手元を見なくても、指先の感覚で正確な操作が可能になりました。

ゲーム&ウォッチ マルチスクリーン「ドンキーコング」
出典:www.nintendo.co.jp

「左に十字キー」「右にボタン」というゲーム機全般に通じるアイデアを最初に考案したのは、間違く横井でした。

そして、この時代に培われた技術の数々は、後のゲームボーイやニンテンドー3Dへと受け継がれていくことになりました。

ニンテンドー3DS
出典:www.nintendo.co.jp

横井は、任天堂がかつて玩具メーカーの時代に入社して、数々の玩具を開発し、のちに「ゲーム&ウォッチ」や「ゲームボーイ」といった携帯型ゲーム機の開発に携わりました。

横井はいわば、玩具の任天堂とゲームの任天堂の橋渡しをした人物とも言えるでしょう。

横井軍平の功績が評価された2003年

ゲーム業界における横井の偉大な功績の数々は、やがて海外でも認められることになりました。

2003年に世界中のゲームクリエイターが参加するゲーム開発者会議(ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワード)で、横井は「生涯功労賞」を受賞しました。

この賞は、ゲームクリエイターたちの投票によって選ばれるもので、もっとも名誉だとされている賞です。

ゲーム機の基礎を作った男は、海を越えて世界中のクリエイターからの評価を手にしました。

横井軍平の名言

最後に、特に印象に残った横井の名言をお伝えします。

ものを考えるときに、世界にひとつしかない、世界で初めてというものを作るのが、私の哲学です。それはどうしてかというと、競合がない、競争がないからです。

横井軍平

安く作らないと売れないというのは、単なるアイデアの不足なんです。日本国内で作っても高く売れるだけのアイデアを考えたらいいじゃないですか。それは決して難しいことをしなくても、実に他愛もないことで実現できるのです。

横井軍平

文典:牧野武文「ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」

[参考書籍]

1)牧野武文(著)「ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」<角川書店>

2)井上理(著)「任天堂“驚き”を生む方程式」<日本経済新聞出版社>