任天堂の宮本茂と「マリオ」誕生秘話

ここでは、任天堂の宮本茂が、ゲームキャラクター「マリオ」を誕生させるきっかけとなったエピソードについて解説します。

任天堂の宮本茂について

宮本茂は、老舗企業である任天堂のゲームプロデューサーです。

米『TIME』誌が毎年行っている企画「世界で影響力がある100人」にノミネートされる常連であり、言わずと知れたコンピューター・ゲーム「マリオシリーズ」や「ゼルダシリーズ」の産みの親として、「SHIGERU MIYAMOTO」の名前は海外でも広く知れ渡っています。

2006年にフランスの芸術文化勲章である「シュヴァリエ賞」を、2007年にイギリスの経済誌『The Economist』から「革新賞」を授与されるなど、宮本は世界でも権威のある賞を何度も受賞しています。

宮本茂の生い立ち~任天堂入社まで

宮本茂は、1952年に京都府南丹市で生まれました。小学1年生の頃に担任の先生から絵を褒められたことがきっかけで、絵を描くことに夢中になりました。

やがてプラモデルや工作、玩具に傾倒した宮本は、絵と造形が必要とされる工業デザインを学ぶために、金沢市立美術工芸大学に入学しました。

大学を卒業した1977年に、宮本は24歳で地元京都の玩具メーカーである任天堂に就職しました。

宮本が就職した当時は、任天堂がちょうどゲーム市場に参入した時期と重なっており、美術や工業デザインを学んだ人間を必要としていました。入職後の宮本に任された仕事は、主に商品のポスターやパッケージデザインの制作が中心でした。

宮本茂の初めてのゲーム製作

宮本が任天堂に入職して4年目の1981年になると、業務用ゲーム「スペース・インベーダー」が大ヒットして、ゲームセンター人気が日本中を席巻しました。任天堂もこのブームに便乗しようと、業務用ゲーム機の開発を本格化させました。

さらに、任天堂は前年(1980年)に国内で発売した「ゲーム&ウォッチ」が好調であったことから、ニューヨークで任天堂・オブ・アメリカ「Nintendo of America Inc.(NOA)」を設立して、海外進出を本格化させました。

NOAは、任天堂の山内社長(当時)の長女の夫である荒川實にすべてを任せていましたが、アメリカに輸出した業務用ゲーム「レーダー・スコープ」が全く売れず、大量の在庫を抱えていました。

資金が底をついたNOAに残されたものは、2000台以上もの誰も見向きもしない業務用ゲーム機だけでした。

荒川は、残された2000台の業務用ゲーム機の基板を差し替えて、別の業務用ゲーム機に改造してほしいと任天堂に泣きつきました。

しかし、国内では「ゲーム&ウォッチ」が活況を呈しており、NOAの在庫の敗戦処理に新規の開発チームを充てている余裕はありませんでした。

そこで山内社長は、敗戦処理に投入しても通常業務に差支えのない人間として、宮本にこの仕事を当たらせることにしました。

宮本はこの時までゲームを製作した経験がなく、プログラミングも満足にできませんでした。そんな宮本にとって、この仕事は自分の実力を示す「ビッグチャンス」でした。

しかし、宮本を指名した当の山内社長は、後で不安を感じたのか、「ゲーム&ウォッチ」の開発者にして、当時のエースだった横井軍平を呼んで、宮本を監督するよう命じました。ここにきて、横井と宮本の夢のタッグが実現しました。

宮本茂と「ドンキーコング」制作秘話

任天堂は当時、「ポパイ」の版権をキング・フィーチャーズと交渉している最中であり、米国生まれの「ポパイ」なら知名度もあるため、NOAで売れ残っている在庫の基板を「ポパイ」と入れ替えれば、在庫のいくらかはさばけるだろうと考えていました。

横井は「ポパイ」の映画の中で、オリーブが工事現場を歩くシーンが印象に残っており(1934年9月に放送された「ポパイ」のアニメ「A Dream Walking」)、工事現場を舞台にしたゲームを作ろうと提案しました。

「ポパイ」の映画「A Dream Walking」

それを聞いた宮本は、上から樽(たる)が転がってきて、それを避けるというアイデアを提案しました。その時の宮本のアイデアは、樽が転がってきたらハシゴに昇って避け、樽が通り過ぎたら、ハシゴを降りて、再び上を目指して登っていくだけの単純なものでした。

しかし、横井とのやり取りによって、宮本のアイデアはさらに膨らんでいきました。

最終的に、ビルの工事現場の屋上に悪漢のブルートがいて、ヒロインのオリーブを連れ去ろうとしており、それをヒーローのポパイが下から登っていき、オリーブを奪還するというストーリーに決まりました。横井は、当時の宮本との仕事を次のように回想しています。

右下にポパイがいて、左上にオリーブがいる。この構図から、どうすればゲームを遊ぶユーザーが「ポパイを上に登らせる」という趣旨に気づいてくれるだろうかということを考えました。そこで、「オリーブがさらわれている」というイメージがあれば、ポパイを上に登らせていくだろうと。それでも、ポパイを動かさないユーザーがいたらどうしようと、宮本君とずいぶん一生懸命考えましたね。そこで「上から転がってきた樽を飛び越したら、今度は背後で火がついて後ろから逆回転して追いかけてくるようにしよう」と決めました。そのようにすれば、否が応でも後ろから追いかけられて上に登っていくだろうと。こうして、ゲーム画面を見ただけで、お客さんに「ハウツープレイ(ゲームの趣旨)」を説明しようとしたのです。

文典:牧野武文「ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」

しかし、キング・フィーチャーズとの交渉は破談に終わり、最終的に「ポパイ」のキャラクターは使えないことになりました。

しかし、こうしたアクシデントの数々は、宮本の才能を開花させるために宇宙が用意した「必然のシナリオ」だったことに、後で全員が知ることになりました。

横井と宮本は、ゲームの舞台やルールなどの骨格はそのままに、キャラクターだけを「ポパイ」から差し替えることにしました。オリジナルキャラクターの考案を任された宮本は、ここで眠っていた才能を一気に開花させていきました。

こうして、業務用ゲームの名作「ドンキーコング」が誕生したのです。

業務用ゲーム「ドンキーコング」

宮本茂と「マリオ」誕生秘話

宮本はキャラクターの制作にあたり、横井を始め、周囲にいるエンジニアたちに「何色まで使っていいのか」「何ドットまで表示できるのか」「どのくらいの動きだったら許されるのか」という技術的な制約を聞いて回りました。

当時の業務用ゲーム機における技術的な制約を理解した宮本は、その制約を逆手にとった魅力的なキャラクターを考案しました。

宮本は当初、帽子のないマリオを考案しましたが、転倒した時に髪が揺れる様子を技術的に表現できないと分かると、すぐに帽子をかぶったマリオに変更しました。

マリオの大きな鼻やヒゲは、単純でありながらも、キャラクターの表情を出しやすいという理由から考案しました。

また、工事現場という舞台設定に加えて、使用する色数が少なくて済み、荒いドット絵でも分かりやすいという理由から、マリオにオーバーオールのつなぎを着せました。

こうした技術的な制約を逆手にとったアイデアによって、世界中で愛される「特徴的なマリオの造形」が誕生したのです。

ドンキーコングとマリオ
出典:www.inside-games.jp

最終的に宮本は、

  • 「悪漢のブルート」の代わりに→「ドンキーコング」
  • 「ポパイ」の代わりに→「マリオ」
  • 「オリーブ」の代わりに→「ピーチ姫」

というキャラクターを作りました。

ゲームのタイトルにする必要があった「ドンキーコング」だけはその名前がつけられていましたが、それ以外のキャラクターにおいては、

  • 「ピーチ姫」は→「レディ」
  • 「マリオ」は→「救助マン」や単に「おっさん」

などと呼ばれており、特定の名前はついていませんでした。

NOAにマリオのキャラクター図案を送ったところ、「マリオ」という同僚に似ていると話題になり、そう命名されたことは有名な話です。

「幸運な偶然」とは、まさにそういうものなのです。

アメリカの大企業、キャノンデール・バイシクルズも、まだ名前が決まっていなかった企業当初、電話回線を引くために公衆電話から電話会社に連絡をしたところ、会社名を尋ねられました。

その時、「キャノンデール駅」と書かれた看板が目に留まり、とっさに「キャノンデール」と答えたことから、実際の企業名になりました。

「幸運な偶然」とは、本当に不思議なものです。今になると、あの愛すべきキャラクターに「マリオ」以外の名前がつくことなど、想像すらできないからです。

さらに宮本は「ドンキーコングが樽を投げる」「マリオがジャンプして避ける」という新たなアイデアを提案して、それが採用されることになりました。

こうして完成した業務用ゲーム「ドンキーコング」は、NOAの在庫分どころか、それを上回る注文が相次ぎ、最終的に6万台を超える大ヒットを記録しました。

業務用ゲーム機「ドンキーコング」
出典: www.nintendo.co.jp

このような結果は、任天堂にとって、あまりにも大きな収穫でした。「ドンキーコング」の開発が宮本の眠っていた才能を開花させ、任天堂を象徴するキャラクターも誕生したからです。

山内社長は、交渉が破断に終わっていた「ポパイ」の版権が取れたことを契機に、宮本に「ゲーム&ウォッチ」の「ポパイ」を担当させました。これも、何百万本も売れる大ヒットゲームになりました。

そして、任天堂が販売したファミリー・コンピューター(ファミコン)が爆発的なヒットを記録すると、山内社長は宮本のためにファミコン用ゲームを開発するセクションを作りました。

このセクションから、数々の人気ゲームソフトが生み出され、宮本は「SHIGERU MIYAMOTO」への階段を一気に駆け上がることになりました。

[関連書籍]

1)井上理(著)「任天堂“驚き”を生む方程式」<日本経済新聞出版社>

2)牧野武文(著)「ゲームの父、横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男」<角川書店>

セレンディピティの最新記事8件