アイザック・ニュートンの生涯

ここでは、「万有引力の法則」の発見や名著「プリンキピア」の出版で知られるイングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者、アイザック・ニュートンの生涯とその業績について解説します。

アイザック・ニュートンのプロフィール

アイザック・ニュートン(1642-1727)は、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者です。

アイザック・ニュートン(1642-1727)
出典:philosophyofscienceportal.blogspot.com

ニュートンは、1664年~1666年にかけて「微分積分法」を発見したことで、ヨハネス・ケプラーによる天体の運動法則と、ガリレオ・ガリレイによる地上の物体の運動法則を「万有引力の法則」によって統一し、現在の文明社会を支える力学体系を構築しました。

1687年、上述の成果をまとめた記念碑的名著「自然科学の数学的諸原理(プリンキピア)」を出版して、その地位を確固たるものにしました。

その一方で、光学に関する研究では悪戦苦闘し、大きな成果を残すことができませんでした。

ニュートンは、社会的地位を得てから死去するまでの40年間を、彼を批判した科学者に残忍な復讐を繰り返すばかりで、科学者としてはほとんど無為に過ごしました。

アイザック・ニュートンの年表

西暦主な出来事
16421イングランドのウールズソープに誕生
166119ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学
1665~6723~25「微分積分法」を発見
「万有引力の法則」を発見
168745「自然科学の数学的諸原理(プリンキピア)」を出版
169654造幣局監事に就任
169957造幣局長官に就任
170361ロンドン王立協会の会長に就任
172784永眠

アイザック・ニュートンの生い立ち

ニュートンは、1642年のクリスマスの日に、イングランド東部リンカンシャー州のウールズソープにある小さな邸宅で生まれました。ニュートンの父親は、彼が生まれたとき、すでに亡くなっていました。

ニュートンは、未熟児として生まれたため、医師からは長く生きれないといわれていました。

ニュートンが生まれてからわずか18ヵ月後、貧しい未亡人となっていた母親は、幼児のニュートンを祖父母のもとに残したまま、裕福な地元の牧師と結婚しました。

このときの母親の裏切りによって、幼少期のニュートンは自暴自棄になり、なかなか立ち直ることができませんでした。

12歳で、ニュートンは学校に入学しますが、知的な才能の兆候は見られませんでした。しかし、徐々に学問の探求に目覚めていきます。

特に科学の分野に興味をもち、手作りの水時計や飛行灯篭(とうろう)などを制作して、地元の人々を驚かせるようになりました。

ニュートンの才能を認めた学校のジョン・ストークス先生とニュートンの叔父にあたる司教ウィリアム・アイスカフは、彼にケンブリッジ大学を挑戦するよう薦めました。

1661年、ニュートンはケンブリッジ大学に入学しましたが、自分の研究に専念し、決められた授業にはほとんど出席しなかったため、落第点ばかりでした。

そんなニュートンが、数年後に世紀の大発見を成し遂げたのです。

アイザック・ニュートンの時代までに明らかにされていたこと

ヨハネス・ケプラーによる「天体の運動法則」

ヨハネス・ケプラーは、惑星が太陽の周りを楕円形(卵型)の軌道で回っていることを、「ケプラーの第一法則」によって明らかにしました。

ケプラーの第一法則
出典:study-style.com

ガリレオ・ガリレイによる「地上の物体の運動法則」

ガリレオ・ガリレイは、地上の物体における2つの運動法則を、

  1. 物体の落下する時間は、物体の質量に依存しない(重たい物体も軽い物体も、地面に落下する時間は同じ)
  2. 物体の落下する距離は、落下する時間に比例する(物体は、地面に落ちるにつれて加速する)

「落体の法則」によって明らかにしました。但し、ガリレオは、地上の物体のみに適用される法則であり、天体では適用されないと考えていました。

アイザック・ニュートンによる「万有引力の法則」の発見

1665年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジを卒業したニュートンは、少しの間、田舎に戻っていました。

この時、不運とも思える出来事が起こりました。学業に戻る前に、大学がペスト(ペスト菌の感染による感染症)によって閉鎖されたのです。

この時期のニュートンは、心身ともに絶好調でした。ニュートンは当時を振り返り、次のように語っています。

「当時、私の頭はもっとも冴えていた。数学や哲学をあれほど熱心にやったのは、あの時が最後だった。」

そんなニュートンが、閑散とした田舎で足止めを食らってしまったのです。

「ツイていない!」

ニュートンは、何度もそう思ったことでしょう。

しかし、強制的に田舎での隠居生活を余儀なくされたことが、ニュートンを、科学史上に例を見ない偉業の達成へと向かわせました。

ニュートンは、自宅の窓辺に座って思索にふける中、リンゴの木からリンゴが地面に落ちるのを何度も目撃しました。

ある時、ふと、ニュートンは思いました。

「リンゴは真っ直ぐ地面に向かって落ちるのに、空にある月は何故落ちてこないのだろう?・・・リンゴの木がどんなに高くても、リンゴはまっすぐ地面に向かって落ちていく。木の高さが2倍、4倍、いや、8倍であっても、リンゴの木の落ち方は変わらない。たとえ、それが月まで届くほどの高さであったとしても・・・。」

その時、リンゴが地面に落ちるのは、地球とリンゴとが引き合う引力の仕業であり、引力は地上だけでなく、月にも当てはまると閃きました。

この閃きによって、すべての物体は互いに引力を及ぼし合っているとする「万有引力の法則」の発見につながっていきました。

地球の引力によって、月は地球に落下し続け、月の引力によって、地球も月に落下し続けるが、月よりも地球のほうが質量が大きいため、地球が月を引き寄せる引力のほうが相対的に大きくなると考えました。

こうして、ニュートンは、月の慣性による直線運動と地球の引力とが合成されて、月が地球の周りを楕円形の軌道で回るという考えに辿り着いたのです。

「万有引力の法則」の発見と「プリンキピア」の出版に影響した二つの偶然

ニュートンが「万有引力の法則」を発見したことと、その成果を世間に公表した名著「自然科学の数学的諸原理(プリンキピア)」の出版には、二つの偶然が影響していました。

ペストの蔓延

その一つが、イギリス全土に蔓延したペストでした。

ペストがやってこなければ、ニュートンは自宅の庭のリンゴの木から、リンゴが落ちるのを見ることはなかったのです。

ニュートンがもっとも冴えていた時期に、彼を田舎に追いやった偶然がなければ、人類は物理の解明に長い時間を要したに違いありません。

科学者ロバート・フックの挑発

もう一つが、科学者ロバート・フックによる挑発でした。

ロバート・フック
出典:andrebermon.wordpress.com

フックは、引力の法則を発見したのは自分だと主張しました。ニュートンは、「私は何年も前から自宅のリンゴの木を見て、もっと良い着想を得ていた」という主旨の反論をしました。

それを証明するよう、フックに挑発されたニュートンは、自身の洞察に磨きをかけ、1687年に「自然科学の数学的諸原理(プリンキピア)」を出版しました。

フックによる挑発とニュートンの好戦的な性格が、「万有引力の法則」を世間に公表するきっかけになりました。

アイザック・ニュートンによる「反射望遠鏡」の発明

ニュートンの時代には、レンズ付きの屈折望遠鏡がすでに開発されており、性能も格段に良くなっていました。しかし、レンズが大きくなる程、光がレンズを屈折する際の色の歪みが大きくなる問題が起きました。

ニュートンは、湾曲したレンズを交換して、光を単に反射させることで問題を解決しました。この改良によって、明るさ自体も2倍になり、望遠鏡がはるかにコンパクトになりました。

反射望遠鏡の模造品
出典:db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp

こうして、1668年に試作され、1671年に完成した「反射望遠鏡」は、ニュートンに大きな名声をもたらしました。

ロンドン王立協会の会長に就任

ニュートンは、「反射望遠鏡」を発明した功績によって、最高の知性の集まりとされたロンドン王立協会の会員に選出されました。

会員に就任して間もなく、会員であったフックと激しく論争したことで、ニュートンは辞任しました。

フックが死去した1703年、ニュートンは、ロンドン王立協会の会長に就任し、1727年に亡くなるまで、その職務を全うしました。

錬金術師としてのアイザック・ニュートン

ニュートンは、物理学以外にも、錬金術や占星術の研究に没頭していました。

ベースメタル(※)のような金属を、金に変える技術の研究や、古文書を調べてその内容を検証をしていました。

※ベースメタルとは、埋蔵量や生産量が多く、錬金が簡単な金属(鉄・銅・亜鉛・アルミニウムなど)のことを指します。

アイザック・ニュートンの晩年

1696年、ニュートンは、王立造幣局の監事のポストに就任しました。その地位は、彼の科学的功績に対する報奨でした。

ニュートンは、激しい熱意で仕事に着手し、コインの偽造を中止させることに成功しました。1699年、ニュートンは、王立造幣局の長官に就任しました。

1727年3月20日に永眠しました。

ウェストミンスター寺院において、大規模な葬儀で葬られたとき、大勢の大衆が集まり、儀仗兵(ぎじょうへい)が見守りました。

アイザック・ニュートンの名言

(万有引力の法則の発見について)私は巨人たちの肩に乗って、ほんの少し先を見通せただけなのです。

アイザック・ニュートン

「肩に乗る」という言葉は、当時の人々の常套句であったらしく、ニュートンの名言は、考え抜かれた感謝の気持ちではなく、軽く口から出た言葉だと考えられています。

アイザック・ニュートンを称えた詩

イギリスの詩人アレキサンダー・ポープ(1688-1744)は、次のような風刺詩を残しています。

自然の法則は、夜の闇に隠されていた。神が言われた。「ニュートンあれ!」と。すると、すべてが明らかになった。

アレキサンダー・ポープ

この詩は、旧約聖書に出てくる「God said, Let there be light and there was light.( 神が言われた。「光あれ!」と。すると、光があった。)」をもじったものです。

[参考書籍]

1)杉晴夫「天才たちの科学史 発見に隠された虚像と実像」<平凡社>

2)ジョン・ファーンドン(著)長田亨一(訳)『 世界を変えた科学者たち-THE GREAT SCIENTIST- 』<悠光堂>

3)スペースタイム「科学史ひらめき図鑑 世界を変えた科学者70人のブレイクスルー」<ナツメ社>

4)リチャード・ゴーガン(著)「天才科学者のひらめき36 世界を変えた大発見物語」<創元社>