アルフレッド・ノーベル~ダイナマイトの発明とノーベル賞の設立~

「ダイナマイトの発明」「ノーベル賞の設立」で知られるスウェーデンの科学者、実業家アルフレッド・ノーベルの生涯について解説します。

アルフレッド・ノーベルのプロフィール

「ダイナマイトの発明」と「ノーベル賞の設立」で知られるスウェーデンの科学者、実業家。

ダイナマイトの発明で莫大な富を築いたことから、「ダイナマイト王」の異名をつ。

アルフレッド・ノーベル(1833-1896)
出典:Wikipedia

1863年に起爆装置「ノーベル式油状爆薬」で特許を取り、家業の爆薬工場を軌道に乗せた。

工場の爆発事故により、弟と従業員を失うも、ニトログリセリンの安全性を高める研究を継続。1866年に「ダイナマイト」を発明し、巨万の富を得た。

1888年、兄の死亡時に、フランスの新聞がアルフレッド・ノーベルの死亡と誤り、「死の証人、死す」と報じたことにショックを受け、遺産をノーベル賞の設立に寄付する旨を遺言状に残した。

死後、遺産の相続執行人は、アルフレッド・ノーベルの意向に従い、1901年にノーベル賞を設立。

アルフレッド・ノーベルの開発した円柱状のダイナマイトは、産業用として現在も広く使われている。

アルフレッド・ノーベルの年表

西暦主な出来事
1833  1  ・10月21日、スウェーデンのストックホルムに、8人兄弟の4男として誕生
184411・父親の事業の影響で、ロシアのサンクトペテルブルクへ移住
・複数の家庭教師がつけられ、化学と語学を中心に学ぶ
185017・化学の勉強のため、単身パリに渡る
185118・化学の勉強のため、単身アメリカに渡る
185522・爆発物であるニトログリセリンの存在を知る
185926・父親の事業が悪化し、破産
・兄を残して、両親とスウェーデンのストックホルムに戻る
・爆発物であるニトログリセリンの研究を本格的に開始
186229・ニトログリセリンの水中爆発実験に成功
186330・「ノーベル式油状爆薬」で特許を取得
186431・工場の爆発事故により、弟エミールと5人の助手が死亡
・この事故により、ストックホルムでの研究が禁止され、ドイツのハンブルクで研究を再開
186532・わずかな衝撃で点火できる「雷管」という起爆装置を発明
186633・不安的なニトログリセリンを扱いやすくした爆薬「ダイナマイト」を発明
186734・ダイナマイトの特許を取得
187138・珪藻土(けいそうど)を活用して、より安全に扱えるダイナマイトを発明
188744・ダイナマイトよりも安全で、さらに強力な破壊力をもつ無煙爆薬「バリスタイト」を発明
189562・持病の心臓病が悪化し、ノーベル賞設立に関する記述を遺言状に残す
189663・12月10日死亡

アルフレッド・ノーベルの代表的な発明

アルフレッド・ノーベルは、石油を遠くまで運ぶ技術や、船で溺れた人を助ける方法など、世の中の役に立つ発明を数多く残しました。その中で特に有名なものは、

  • ダイナマイト
  • バリスタイト

の発明です。

ダイナマイトとは

ニトログリセリンを珪藻土と混ぜ、筒のような形に成型して、中に雷管(起爆装置)を入れた比較的安全な爆薬です。アルフレッド・ノーベルが命名した「ダイナマイト」の名称は、ギリシャ語で「力」を意味します。

バリスタイトとは

透明なゼリー状の無煙爆薬であり、ニトログリセリンが染み出さないためにダイナマイトよりも安全性が高く、強力な破壊力が特徴です。

アルフレッド・ノーベルは、爆薬関連の発明を皮切りに、生涯で申請した特許の数は、355にも及びました。

晩年は、細菌の撲滅に用いる化合物についての新しいアイデアがあり、麻酔薬を投与する新しい方法についても思案していました。

とりわけ、様々な病気を診断する手段として、血液の科学的性質を分析することや、輸血技術の開発にも関心を抱いていました。

アルフレッド・ノーベルの青年時代

アルフレッド・ノーベルの父親、イマヌエルは独学で工学を学び、事業に精力的な人物でした。

しかし、アルフレッド・ノーベルが生まれた1833年に、イマヌエルはストックホルムで手掛けていた事業に失敗して、破産しました。

ストックホルムで数年間苦しい生活を送った後、1838年にイマヌエルはロシアのサントペテルブルクに移り、爆薬の製造業を始めました。

数年後、次第に事業が軌道に乗ってきたイマヌエルは、家族全員をサントペテルブルクに呼び寄せました。

この時まで、アルフレッド・ノーベルの母アンドリエッタが乳製品や野菜を商う小さな店を経営して、一家を支えていました。

サントペテルブルクに移住したとき、アルフレッド・ノーベルは学校の1年目をちょうど終えたところでしたが、結局、正規の学校教育を受けたのはこの1年だけで、その後は家庭教師から学ぶことになりました。

サントペテルブルクでは、兄たちはエンジニアになるための訓練を受けましたが、アルフレッド・ノーベルは化学を学びました。

幼少期より、イマヌエルの影響で工学に興味をもち、その基礎を学んでいたことも影響していました。

アルフレッド・ノーベルは、複数の家庭教師から、化学に加えて語学も学びました。

アルフレッド・ノーベルは呑み込みが早く、スウェーデン語に加えて、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語の計6か国語を流暢に操れるようになりました。

17歳当時のアルフレッド・ノーベルを知る人の記録には、「早熟で、大変聡明であるが、一人でいるのを好む、夢見がちで内省的な弱々しい若者という印象」が残されています。

ダイナマイトの発明<前編>

1850年から、アルフレッド・ノーベルはドイツ、フランス、イタリア、北米と外国に留学して、10代の後半を国外で過ごしました。

パリにて、テオフィル=ジュール・ペルーズ教授の有名な実験室で働いていた頃、若きイタリア人科学者、アスカニオ・ソブレロ(ソブレロ)と運命の出会いを果たします。

ソブレロは1846年に揮発性の油を発見しており、「ニトログリセリン」と名付けていました。

ニトログリセリンを硝酸処理すると驚異的な破壊力をもつ液体になることを発見しましたが、強い熱や大きな揺れを与えただけで簡単に爆発する大きな欠点があり、実用化には至っていませんでした。

アルフレッド・ノーベルは、ソブレロからこの話を聞いた時、ニトログリセリンの大いなる可能性を見抜きました。

30歳頃のアルフレッド・ノーベル
出典:Wikipedia

サンクトペテルブルクで爆薬の製造業を経営し、しばらくは大成功を収めていた父イマヌエルの事業が傾くと、1859年に兄のロベルトとルドヴィクを除いて、一家はストックホルムに戻りました。

アルフレッド・ノーベルと末弟のエミールは、イマヌエルの跡を継ぎ、ニトログリセリンを市販可能な爆薬にするための開発を始めました。

1862年に、アルフレッド・ノーベルは初めてニトログリセリンの水爆実験に成功して、翌1863年に「ノーベル式油状爆薬」として特許を取得しました。

順風満帆に思えた1864年9月3日に悲劇が起きました。

なんと、ストックホルムの郊外にあるアルフレッド・ノーベルの工場が爆発したのです。アルフレッド・ノーベルは助かりましたが、エミールを含めた5人が死亡する大惨事となりました。

アルフレッド・ノーベルは、それでも実験を止めませんでした。

1865年に、アルフレッド・ノーベルは「雷管」という起爆装置を発明しました。

具体的には、ニトログリセリンを入れた缶の中に火薬を詰めた小さな木箱を入れ、「導火線」という紐に火をつけて火薬を爆発させます。この小さな爆発によって、ニトログリセリンを爆発させるという仕組みが「雷管」です。

アルフレッド・ノーベルは、導火線を長くすれば、遠く離れた場所でも爆発を操ることができ、安全になると考えました。

しかし、ニトログリセリンの缶を落としたり、揺らしただけでも爆発するという欠点が、まだ残っていました。

1866年に、アルフレッド・ノーベルがアメリカ各地に赴き、ニトログリセリの安全性を実演していた時、再び悲劇が起こりました。

ドイツのクリュメルにあるアルフレッド・ノーベルの工場で再び爆発事故が起きたのです。

それでも、アルフレッド・ノーベルは実験を止めようとしませんでした。

そんな中、ふとした偶然が起こりました。

ダイナマイトの発明<後編>

1866年に、原料であるニトログリセリンを輸送中のことでした。

安全のため、輸送中はニトログリセリンを入れたフラスコの周りをおがくずで詰めて梱包していました。

そんな中、偶然にもフラスコの中身がこぼれ、おがくずにニトログリセリンが浸み込んだのです。

アルフレッド・ノーベルはこの偶然から、ニトログリセリンを何かに吸収させてしまえば、安全性が確保できることに気がついたのでした。

早速、ニトログリセリンの吸収剤を探すことにしましたが、難航するかに思われた吸収剤はいとも簡単に見つかりました。

なんと、ニトログリセリンに最適な吸収剤は、クリュメルの工場のすぐそばで見つかりました。クリュメルのそばにあった「珪藻土(けいそうど)」と呼ばれる土が、まさに理想的だったのです。

珪藻土とは、藻類の仲間である珪藻の残骸が堆積したもので、組織は浜の砂と同じ二酸化ケイ素で出来ていました。しかし、砂とは違い、珪藻土はとても吸収力に優れており、ニトログリセリンを吸収すると粘土状になる特性がありました。簡単に成型でき、取り扱いが安全になるうえに、ニトログリセリンの威力は変わりませんでした。

「ヒントは足元にある」とは、このことでしょうか。それは、まさに奇跡のような偶然でした。

ニトログリセリンを珪藻土に吸収させ、筒のような形に成型した上で、中に雷管(起爆装置)を入れて完成した比較的安全な爆薬を、アルフレッド・ノーベルはギリシャ語で「力」という意味の「ダイナマイト」と命名しました。

アルフレッド・ノーベルは、1875年にイギリス、1896年にアメリカで特許を取得し、爆薬関連の事業で飛躍的な成功を収めました。

バリスタイトの発明

1887年のある日、実験室で作業をしていたアルフレッド・ノーベルは、ガラスの破片でうっかり指を切ってしまいました。

傷口をふさぐ手当てとして、当時の一般的なやり方は、溶かしたニトロセルロースを傷口にさらして乾燥させ、傷口をニトロセルロースの膜で覆うというものでした。

ニトロセルロースが乾燥してできた膜は、「コロジオン膜」と呼ばれていました。ニトロセルロースは爆発物としても利用されており、コロジオン膜も引火しやすい特徴がありました。

アルフレッド・ノーベルはこの時、ニトログリセリンとニトロセルローズを混ぜれば、従来のダイナマイトよりはるかに威力があり、安定した爆発物が作れるのではないかと閃きました。

その翌日、朝早くから自宅にある実験室で、ニトログリセリンとニトロセルロースを異なる割合で混ぜて実験を開始しました。

助手が始業時間にやって来たとき、アルフレッド・ノーベルは、ニトログリセリンとニトロセルロースが混ざったゼリー状の爆薬を完成させていました。

こうして、ダイナマイトよりも安全で、さらに強力な破壊力を備えた無煙爆薬「バリスタイト」が誕生したのです。同年、アルフレッド・ノーベルは「バリスタイト」の特許を取得しました。

アルフレッド・ノーベルは、1873年からパリに住んで研究を続けていましたが、開発した「バリスタイト」をイタリアに販売したことがフランスの裏切り行為だと非難され、1891年にイタリアのサンレモに移住しました。

アルフレッド・ノーベルの受賞歴

1868年に、アルフレッド・ノーベルと父イマヌエルは、スウェーデン王国立科学アカデミーから賞を授与されました。

受賞者は、金のメダルか、996スウェーデン・クローナの賞金のどちらかを選べました。ノーベル親子は金のメダルを選択して、イマヌエルが保管しました。

1884年には、鉱山技師のアントン・シェーグレンの推薦によって、アルフレッド・ノーベルはスウェーデン王国立科学アカデミーの会員に選出されました。

同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与されました。

1893年に、ウプサラ大学の創立300周年の記念式典において、スウェーデンの学術機関からウプサラ大学の名誉博士に選出されました。

ダイナマイトの成功で億万長者に

ダイナマイトの発明は、そのすべてが絶妙のタイミングでした。

当時、鉄道網の発達に伴うトンネル作りや油田の発掘、運河の浚渫(しゅんせつ)が盛んに行われており、安全で効率の良い爆薬が求められていました。

ダイナマイトは、それらすべての需要に応えることができました。

ダイナマイトは次々と生産され、この成功によってアルフレッド・ノーベルは破格の大金を得ました。このとき、世界一のお金持ちになったとも言われています。

その一方で、ダイナマイトは戦争の道具としても利用されていくことになります。

ノーベル賞の設立

1888年、アルフレッド・ノーベルの兄が亡くなった際、アルフレッド・ノーベルが死んだと勘違いしたフランスの新聞は、彼の死を報じました。その見出しには、「死の商人、死す」と書かれていました。

新聞の記事を目にしたアルフレッド・ノーベルは、相当なショックを受けたといいます。

たしかに、ダイナマイトは戦争でも使用されるようになりました。

アルフレッド・ノーベル自身も、より強力な兵器の開発も進めていたため、「アルフレッド・ノーベルは人の死を商売にしている」と言われても仕方がありませんでした。

しかし、アルフレッド・ノーベルは、人殺しの道具としてダイナマイトを作ったわけではありませんでした。

元々アルフレッド・ノーベルは、平和運動家のズットナー女史と交流をもつなど、平和問題に関心をもっていました。

多くの国が強力な兵器を持てば、それが抑止力になるという、平和を願ってこその考えでした。

しかし、世間はアルフレッド・ノーベルを別の目で見ていたのです。

アルフレッド・ノーベルは、このような形で人々の記憶に残りたくないと考えるようになりました。人々の印象を変えるべく、出来る限りのことをしようと決意しました。

アルフレッド・ノーベルは遺言を書き直して、物理学、化学、生理学、医学、平和の各部門からなるノーベル賞を設け、そのための基金を設立することにしました。

ノーベル平和賞の金メダル
出典:Wikipedia

この「遺言」をもとに生まれたのが、「ノーベル賞」です。

アルフレッド・ノーベルの死から5年後、1901年からスタートしたノーベル賞は、国籍、性別を問わず、きっちりと調べ上げて受賞者を決める公平さによって、現在もなお世界中から注目されています。

毎年、人類に最大の貢献をした人々に贈られるノーベル賞は、まさに誤報記事から起こった偶然の産物でした。

母アンドリエッタの遺産の使い道

アルフレッド・ノーベルの母アンドリエッタは、1889年に84歳で亡くなりました。母の遺産は比較的多く、そのうちの1/3をアルフレッド・ノーベルが相続しました。

墓をたてるために使った以外の5万スウェーデン・クローナは、医学のあらゆる分野の研究を支援し、その研究成果を教育と著作物に役立てる「カロリーネ・アンドリエッタ・ノーベル基金」の設立に投じました。

アルフレッド・ノーベルの晩年

アルフレッド・ノーベルにとって、涙ぐましい努力によって科学技術を進歩させることが、人類の貢献につながると信じていました。

しかし、「死の商人、死す」と書かれた新聞の誤報がきっかけとなり、自分の発明品どころか、自分の人生までもが失敗だと思うようになりました。

さらに、60歳を過ぎたころから心臓の循環障害を患うようになりました。

運命のいたずらとうべきか、心臓の循環障害を緩和するために、かつて自身が発明した忌まわしきニトログリセリンを医者に勧められました。

じつは、ダイナマイトの発見から間もなくして、ニトログリセリンには爆薬以外の特性も発見されていました。

ニトログリセリンは血管を活性化させる作用があり、収縮した心臓の血管を緩める効能がありました。医者がニトログリセリンを勧めたのも、その理由からでした。

しかし、アルフレッド・ノーベルはニトログリセリンの使用を断りました。弟のロバートに宛てた手紙には、次のように書いていました。

薬剤師や民衆を怖がらせないよう、医者はそれをトリニトリンと呼んでいるのだ。

アルフレッド・ノーベル

アルフレッド・ノーベルの遺産総額

アルフレッド・ノーベルの遺産は、およそ3300万スウェーデン・クローナであったといわれています。

この莫大な遺産のうちの94%が、彼の死後、ノーベル賞の設立に充てられることになりました。

アルフレッド・ノーベルの遺言

アルフレッド・ノーベルの遺言は、弁護士の助けを借りずに自分一人で書き上げました。

かつて特許権を守っていた時、何度も弁護士に失望させられた経験があり、弁護士を「法律上の手続きを食い物にしている寄生虫」と呼んでいました。

ここでは、アルフレッド・ノーベルが残した実際の遺言を、一部抜粋して記載します。

私の残っている換金可能な遺産のすべては、次のように取り扱われることとする。指定遺言執行者により確実に証券に投資された遺産金は基金になる。その利息は毎年賞という形で、前年に人類に最も偉大な利益を与えた人物に分配されることとする。前述の利息は5等分され、それらは次のように分配されることとする。

  • 一部は物理学の範囲内で重要な発見か発明をした人物に対して。
  • 一部は最も重要な科学的発見か改良をした人物に対して。
  • 一部は生理学・医学の分野内で最も重要な発見をした人物に対して。
  • 一部は文学の分野で想像上の主題において最も顕著な作品を創作した人物に対して。
  • 一部は国家間の友愛のために、常備軍の廃止や削減のために、そして平和会議の開催と振興のために、最高のまたは最善の努力をした人物に対して。

(中略)賞を授与するにあたって、候補者の国籍に対して与えられるといういかなる配慮もあってはならないが、スカンジナビア人であろうとなかろうと、最もふさわしい人物が賞を受けることになることが、私のはっきりした願いである。

1895年11月27日パリにて
アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル

出典:イストヴァン・ハルギッタイ(著)阿部剛久(訳)「ノーベル賞その栄光と真実」

1896年12月10日、アルフレッド・ノーベルが63歳で亡くなると、その5日後に遺言書が開けられました。集まった親戚一同は失望したといいます。

3300万スウェーデン・クローナという莫大な遺産のうち、100万スウェーデン・クローナしか、彼らに与えられなかったのです。

アルフレッド・ノーベルは、自身が発明家であったことから、才能ある若い発明家に、創造力を高める条件を提供することの重要性を認識していました。

それはすなわち、およそ20年収入がなくても研究に集中するだけの賞金を受賞者に与えるという考えでした。

ノーベル賞に「数学賞」がない理由

一説には、アルフレッド・ノーベルを振った女性の結婚相手が、数学者だったことが原因だと言われています。

ノーベル賞に「文学賞」がある理由

アルフレッド・ノーベル自身が、文学に携わっていたことも影響しているように思います。事業や発明以外にも、詩や小説を書いていましたが、あまり成功したとは言えませんでした。

晩年には、「ネメシス」という題の戯曲を執筆し、自費出版をしました。彼の死後に親族が確かめたところ、本は1冊を残してすべて破棄されていました。

「ネメシス」には、文学が人類の住む世界を変える一つの手段であるという、アルフレッド・ノーベルの信念が反映されていました。

アルフレッド・ノーベルの恋

アルフレッド・ノーベルは、生涯で3度の恋愛をしたといわれていますが、一度も結婚をしませんでした。

その内の2人の女性からフラれた経験は、アルフレッド・ノーベルの心を徐々にすさんだものにしていきました。

アルフレッド・ノーベルの名言

アルフレッド・ノーベルの名言(Ⅰ)

1000個のアイデアがあったとしても、1個実現したら良い方だ

アルフレッド・ノーベル

アルフレッド・ノーベルの名言(Ⅱ)

科学技術の進歩は常に危険と背中合わせだ。それを乗り越えて初めて人類の未来に貢献できるのだ

アルフレッド・ノーベル

アルフレッド・ノーベルの名言(Ⅲ)

この世の中で悪用されないものはない

アルフレッド・ノーベル

アルフレッド・ノーベルの名言(Ⅳ)

(自身の最大の発明であるダイナマイトについて)おろかな殺人の道具になってしまった

アルフレッド・ノーベル

[引用・参考文献]

1)リチャード・ゴーガン(著)「天才科学者のひらめき36 世界を変えた大発見物語」<創元社>

2)ジャック・チャロナー(編)小巻靖子(訳)松浦弘(訳)安藤貴子(訳)プレシ南日子(訳)「人類の歴史を変えた発明1001」<ゆまに書房>

3)大野正人「失敗図鑑 すごい人ほどダメだった!」<文響社>

4)イストヴァン・ハルギッタイ(著)阿部剛久(訳)「ノーベル賞その栄光と真実」<森北出版>

5)アーリング・ノルビ(著)千葉喜久枝(訳)「ノーベル賞はこうして決まる 選考者が語る自然科学三賞の真実」<創元社>